2003.9.10号




 第四話 鮑

 貝の王者、鮑。
 鮑というと、高嶺の花の高級食材というイメージが先行してしまいますが、調理法や扱い自体が難しいわけでは決してありません。旬の夏場、とっておきのおもてなしにトライしてみてはいかがですか。
 「磯の鮑の片思い」という諺は聞いたことがあるでしょう。あの、独特の平たい貝殻の形を、古人は二枚貝の片方の殻がなくなったようと、片思いの気持ちを表現したのです。なんとも風流ですね。しかしながら、鮑はれっきとした巻貝。さざえのようにしっかり巻き上がらずに、ゆるく平たく巻いていると思ってください。旬は夏。産卵を前に、最も身が充実するときです。
 そうして見せられた今回の鮑は二杯とも、直径20cm近く、殻つきで800gほどの見事な姿。築地でも、1日わずかしか入荷しない極上ものです。ちなみに仕入れ値で一杯1万5000円。鮑は、漁獲法が進歩したとはいえ、海女さんが海に潜って、一つ一つ傷つけないように丁寧に岩からはがして採取するもの。これほどの鮑ではないにしても、値が張るのもいたしかたないのでしょう。今日の鮑は二杯とも外房の産。色の違いは、主食となる海藻の違いによるものだとか。鮑は魚のように旅をしないから、いかに良質の海藻に恵まれた海で育つかが、味のよさの決め手となるのです。

寿司幸本店

鮑


殻をはずす
 初級者が鮑を調理しようとして、まず立ちはだかる難関は“殻”。これをはずせるか否かで、調理の幅はまったく異なってしまいます。殻がはずせなければ、殻ごと酒蒸しにするしかないのですから。うまくいくだろうか、そんな心配をよそに杉山さん「鮑は貝類の中では、最も開けやすい部類」と、涼しい顔です。まずは流水の下で、たわしでゴシゴシ洗います。殻はもちろん、岩にはりついていた足(?)も勢いよくこすり洗い。黒かった身がみるみるうちに白っぽくなり、同時にきゅっと身が縮んできます。これが大切。洗うのは、汚れを落とすという意味だけでなく、このように筋肉を収縮させて、殻からはずれやすくするためなのです。
 次に、殻の穴があいている側を向こうに、平らな側を手前に置き、天地そのままに裏返します。そして、手前から、おろし金の柄など、堅いものを突っ込んで、貝柱を探りながら、軽くねじるような感じで殻からはがします。 すると、この通り。周囲の「まく」という帆立でいうところの、ひもにあたる部分を除き、肝を破らないようにていねいに取り、あとは再度流水できれいに洗います。
鮑

鮑を洗う

殻を取った鮑


歯ごたえが身上の水貝

水貝とは、鮑のお刺身を氷の上に盛り付けて涼味を楽しむ、おなじみの夏の一皿。風変わりな料理名ですが、鮑そのもののこともこう表現することからの命名。 というのも、鮑は身に大量に水分を含んでいて、傾けると、切り口から磯の旨みが水分となってしたたり落ちて伝ってくるほどなのです。それで水貝。
 鮑の貝柱は、2枚貝とは異なりこの中心の平たく丸い部分です。板前さんの言葉では「おへそ」。しゃきしゃきした歯ごたえを珍重する部位です。 薄切りにし、ぬめりをとるために10秒ほど熱湯に通してから、冷水で冷やします。まわりのひらひらとした部分は「へた」。 これはかなり硬いのですが、包丁で細かく切り目を入れて食べやすく。今回はこの貝柱とへたを盛り合わせた一皿です。鮑自身がほどよく塩分を含んでいるため、添えるのは少量の塩だけ。 あとはレモンを搾ってストレートに。コリコリとした歯ごたえとともに、口中に旨みがあふれます。

肝を堪能する
 そして鮑が珍重されるもうひとつの理由は、ほろ苦くて濃厚な肝の旨みにあります。鮑の主食は海藻ですから、肝はいわば海藻のエッセンスが凝縮したようなもの。


肝の二杯酢がけ

ほんとうに鮮度のいい鮑の肝なら、スライスしたものをそのままいただけます。しょうゆ、生酢、レモン汁少々を合わせた二杯酢をかけ、おろし生姜を添えるだけ。海藻の香りがふんわりと鼻腔を抜けて、濃厚ながら清々しく、肝好きにはこたえられない珍味です。


焼き鮑の肝ソースかけ

続いてソースに仕立てます。肝は開き、細かく包丁で叩きます。つぶれてきたら、濃度を出すために酢めし少々も加えてさらにていねいに叩きます。最後に帆立のひもにあたる「まく」を刻んだものを混ぜ込み、こりこりとした歯ごたえに変化をつけます。そしてレモン多めの二杯酢と塩少々を加えて混ぜて完成。まずは、もろきゅう、みょうがとともに鮑の薄切りを盛り、肝ソースをかけた正統派の肴。そして次に、1cm厚さに切って軽く網で焼いた鮑を酢飯の上にのせ、肝ソースをたっぷりという変化球の小鉢を一皿。はたして、その複雑で豊かな味わいのおいしかったこと。筆舌に尽くしがたいとはまさにこのこと。「この肝ソース、さっとゆでたいかやたこなどにも合うんですよ。 鮑の量が少くても、充分楽しめます」とご主人。一杯の鮑で多人数に対応できる、うれしいアドバイスです。


寿司屋の正統派「蒸し鮑」

「蒸し鮑」といえば、鮑の旨みを素直に生かす手法の王道というイメージがありますが、本来の伝統的な料理法を知っている人は少ないかもしれません。というのも、“蒸し”といいながら、蒸気で蒸すのではなく、ひたすらゆでるという調理法をとるためです。認識を新たにしたのは私も同様です。
 大きな鍋に殻をはずした鮑四〜五杯を並べ、鍋いっぱいの水を入れて、水が空になるまでひたすら1〜2時間ゆでます。まずこうして、鮑の繊維を徹底的に柔らかくしてやるのです。その後、鍋いっぱいに酒を注ぎ、再び酒が完全になくなるまで、1〜2時間かけてゆっくり詰めます。これで、いったん酒の中に出た鮑のエキスが、酒の旨みとともに全部また鮑の中に戻り、芯までやわらかい蒸し鮑ができあがります。蒸気で蒸す方法だと、鮑の旨みが外に流れてしまい、もったいない。蒸し立ての鮑のやわらかいこと、滋味豊かなこと、感動的です。

 元来、寿司屋の蒸し鮑はこう作るものだったとおっしゃるご主人。興味深いお話を聞かせてくださいました。ときは大正12年(1923年)9月1日の正午。そう、関東大震災の当日です。グラッときたときは、二代目にあたるご祖父は、ちょうど鍋いっぱいの蒸し鮑を煮ているところでした。当時、新橋にあった店は、幸いにも断層から外れていたために、それほどのゆれを感じず、調理を続けていたとか。ところが、窓から外を見れば、非難する人の流れとともに、次第に黒煙が近づいてくる。これは大変と、従業員一同、愛宕山へ避難することに。そのとき、ご祖父は鍋いっぱいの鮑を抱えて逃げたというのです。仕事を放り出せない職人魂。そしてまた、避難先での皆の滋養のためにと。無我夢中の行動とはいえ、寿司屋の心意気が感じられる話ではありませんか。



蒸し鮑の煮汁をだしとして使う
 鮑を煮ているときの煮汁がまた、最高のだしになります。からだ中に海藻のエキスがしみこんでいる鮑、一人で鰹と昆布、両方の役目を果たしているようなものです。 ただしこれは、「寿司幸」のように大量に煮るからこその滋味 。家庭で一杯だけ煮るのでは、なかなかそこまでの味は出ません。 それでご主人おすすめの裏技は、蛤(ハマグリ)を一緒に煮て、味を補ってやるというものです。


茶碗蒸し

 卵を一番だしの代わりに鮑の煮汁で溶いて作ります。卵と煮汁の割合は1対3くらい。味つけは薄口と塩少々。器にゆでたそうめんを入れ、生鮑の薄切りと蒸し鮑の薄切りを重ね、椎茸を散らし、卵液を注ぎ、蒸し器で20分弱。仕上げに柚子の皮少々。鮑の持つ豊かなアミノ酸が十分にとけこんだ卵の美味なこと。大きな器にたっぷり作れば、おもてなしのご馳走にもなります。


雑炊

 海藻類との相性のよさも、鮑を料理するときに覚えておきたい特徴の一つです。残りごはんをさっと洗って鍋に入れ、だしを注いで塩と薄口で調味。もずくと蒸し鮑のぶつ切りを加え、温ったら卵を溶き、火を止めて蒸らし、わけぎを少々。蒸し鮑はとろけるようにやわらかくなったへたの部分を使い、さらりとした雑炊とのコンビンネーションを楽しみます。
 いただきものの煮貝があったら、それを利用するのも賢い方法です。煮貝は薄切りにし煮汁に水を加えて温め、だし代わりに使えば、雑炊や茶碗蒸しなどには充分とか。


グラタン

 玉ねぎのみじん切りをバターでさっと炒め、しんなりしたらご飯を加えてひと炒め。 続いて煮汁少々を加えしっとりしたチャーハン状にします。ご飯粒を詰めて穴を埋めた殻に、炒めたごはんを敷き、薄切りにした生あわびとマッシュルームを散らします。ホワイトソースをかけ、溶けるチーズとパン粉、パセリをふってこんがりと焼けばできあがり。

至福の一杯を選ぶなら…

 このように、旨み分が強く、存在感のある鮑ですが、意外にも他の素材との相性もよく、いろいろアレンジが楽しめるのがおわかりいただけましたか。思い切って買った貴重な一杯の鮑の賢い使い方としてはこんな具合です。まず殻をはずし1/3は水貝として生で食べます。そして残りの2/3に蛤2〜3個を足して、前述の蒸し鮑の方法でじっく煮る。こうすると、やわらかな蒸し鮑とともに、豊かな風味のだしも楽しめると、合理的です。さらに、バター、ごはん、海藻など相性のよい素材と取り合わせたり、えびやいかなどを加えてボリュームを持たせる工夫をすれば、一杯の鮑から、四〜五品のバリエーションが楽しめるというわけです。手が出ない高級素材と思っていた方も、ぜひ一度、小技、裏技を効かせて、鮑づくしの贅沢な食卓を楽しんでください。



鮑にまつわるあれこれ
 鮑のこれほどの旨みは、鮑に含まれるさまざまなアミノ酸の働きによるものです。そしてそれらはまた、身体の機能においてもさまざまな効能を示します。 代表的なものに、疲労回復に効果的なタウリン、肝臓や筋肉に働きかけるロイシン、免疫力を高め、ダイエットにも効果的なアルギニンがあります。 中国では古くから滋養、強壮の特効薬とされ、漢方でも、目に効く生薬として干し鮑が珍重されてきました。
 また、今も贈答品につける熨斗は、その昔、干し鮑をのしたものを奉書で包んで熨斗と書いて献納した風習の名残り、ということはご存知でしょうか。鮑が貴重な栄養源であった以上に、神聖視されてきたことがよくわかります。
 さらには、貝殻の内側の光沢部分が漆器などの螺鈿細工に用いられるのはよく知られるところです。「バブルの頃はボタン屋さんがよく鮑の殻を買いにきましたよ。夏いっぱい、殻をためておくと、従業員みんなで焼肉を食べに行けたほどだから、けっこうしたんですね、殻一枚が」と杉山さん。貝ボタンがますます希少に、高価になっているのも納得がいきました。
このように、生で、焼いて、蒸して身体を養い、また乾燥させて生薬や奉納のために用いられ、さらに貝殻は装飾品に利用されるなど、長い人類の歴史に深く関わってきた鮑。そんな史実の片鱗を知って食すと、贅沢な美味食材というだけでなく、より尊い滋味が味わえることでしょう。

小松宏子

writer's eyes
 鮑はもともと大好きな素材ですが、こんなに、鮑三昧、味わい尽くしたのは正直、生まれて初めてでしょうか。殻をはずし、生、焼、蒸(煮)、そしてそのだしを活用して、次々と形を変えていく鮑料理。唯一無二の絶対の存在感と、意外なほど他の食材と相性のよい、協調性。 その二面性にも驚かされました。レストランや割烹では、前者の特徴を強調した料理が目立ちますが、今回は、その両方を取り混ぜてバランスよく教えていただいたのが何よりでした。
 鮑の漁獲量が減っているため、稚貝を放流しているというニュースをTVで見ました。生を受けて間もない稚貝は、親貝からは想像もつかない鮮やかなエメラルドブルー。直径2センチにも満たない小さなからだなのに、殻には鮑特有の穴があいています。必死で泳いでいる姿がなんとも愛らしく、印象に残りました。

■取材協力/ 銀座寿司幸本店 主人 杉山 衛さん
  明治18年銀座に創業した、老舗寿司店の四代目。
古い仕事を守ると同時に、ワインと寿司のマリアージュなど、新しい時代の風を取り入れることにも熱心。
魚を見る目や扱いにかけてはもちろん、歴史やうんちく、栄養的な情報まで、幅広い知識を持つ。

昨年10月、丸ビルにも店舗を構え、若い女性の寿司幸ファンを増やしている。
(丸ビル店 03-3240-1908)
   



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